グル・ナーナクによる。
 宗教には、宇宙の最初の状態についてを知りたいと思う信者達の要求があり、この詩はそれに答えて造られたものであろうか。
 あらゆるものが何もなく、ただフカム(punj.Hukam. 大命)のみが存在することを歌うこれは、リグ・ヴェーダ10巻129スークタのアーサッド・ナーシーティア賛歌との類似を想起させる。

『そのとき(太初において)無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、その上の天もなかりき。何ものか発動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。
 そのとき、死もなかりき、不死もなかりき。昼と夜との標識もなかりき。かの唯一物(中性の根本原理)は自力により風なく呼吸せり。これより他に何ものも存在せざりき』(リグ・ヴェーダ賛歌 辻直四郎訳。岩波文庫版より)




数十億の時、果てしない時の中、ただ闇であった。
地もなく空もなく、無際限のフカム(絶対者から発せられる命令の意味であるが、この最初の段階には命令を下す者も命令そのものも区別はない。このアラビア語由来の語は、ここでは原初の真理(punj.Sacch,skr.Satya)と同意義として使われているように思える。)のみがあった。
昼もなく夜もなく、月もなく太陽もなく、虚無であり、(フカムは)サマーディ(三昧)にあった。॥1॥

元素もなく、言葉もなく、大気もなく、水もなかった。
生成も消滅もなく、来るものも行くものもなかった。
大陸もなく、地下もなく、七つの大洋もなく、河も水の流れもなかった。॥2॥

天界もこの世界もなく、
ドザクもワヒシュト(per.地獄と天国)もなく、破壊も破滅もなかった。
奈落も天国もなく、誕生も死も、来るものも行くものもなかった。॥3॥

ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュヴァラ(シヴァ)もなかった。
他に何者も見えず、一なる者のみがあった。
男も女もなく、ジャーティ(カースト)もなく、生まれのよる差もなく、幸福も不幸も味わう者はなかった。॥4॥

その時には、出家者もサティも森に棲む者もなかった。
その時には、シッダもサーディクもスクワーシーもなかった。
ヨーギーもジャンガム(シヴァ派の行者)も宗教的装いもなく、ナート(ヴィシュヌ派の行者)もいなかった。॥5॥

ジャパ(連誦)もタパス(苦行)もサンヤマ(心の統制)もなく、断食の定めも礼拝もなかった。
誰も第二のものについて語りはしなかった。
大命は大命自身を造り、それを喜び、評価した。॥6॥

浄化、心の統制、トゥルシー(ホーリーバジル)の数珠もなかった。
ゴーピー達、クリシュナ、牛も牛飼いもなかった。
タントラも、マントラもなく、嘘をつく者も、笛を吹く者もなかった。॥7॥

応報の原理(カルマ)もなく、宇宙の法則(ダルマ)もなく、マーヤー(幻力)の羽音もなかった。
ジャーティも生まれによる差も、誰の目にも顕れていなかった。
ママター(自己の迷い)の網、額に書かれた死、瞑想もなかった。॥8॥

総体もなく、種子もなく、霊魂もなく、生物もなかった。
ゴーラクも、マチェンドラもいなかった。
霊知、禅定、先祖も誕生もなく、帳簿の清算もなかった。॥9॥

ヴァルナ(四姓)、宗教的装い、ブラーミン、クシャトリアもなかった。
デーヴァ(神々)、神殿、牛、ガーヤトリーもなかった。
ホーム祭儀もなく、巡礼地の沐浴もなく、誰も礼拝をしなかった。॥10॥

ムッラー(イスラムの法学者)も、カーズィー(イスラムの法官)もなく、
シェイクも、ハッズィー(メッカ巡礼者)もなかった。
民も王もなく、世俗的な利己心もなく、自己に語るものもいなかった。॥11॥

愛も献身もなく、シヴァもシャクティも(男性原理と女性原理)なかった。
友も仲間もなく、精液も血液もなかった。
真理自身が金貸し、真理自身が商売人。これが真理の意志。॥12॥

ヴェーダ、キターブ(啓典)、スィムリティ、シャーストラ(経典)もなかった。
プラーナ(ヴェーダに付属する物語)の詠唱もなく、日没、日の出もなかった。
測りがたい真理が、語る者で、教える者。語られざる真理が、すべてを見る。॥13॥

彼がそう望まれた時に、世界は創られた。
他者の助けなく、宇宙を拡げた。
ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュヴァラを造り、マーヤーへの愛着を促した。॥14॥

師の言葉を聞く者がどれだけあるだろうか。
フカムは、あらゆるものを創造し、あらゆるものを見る。
星々、宇宙、地獄の領域の起源と秘密は明らかになった。॥15॥

しかし、誰も(フカムの)終わりを知ることはできない。
完全なる師によってのみ、このことの理解することができる。
ナーナクよ、真理と繋がる者は驚きに打たれ、フカムの栄光を歌い、驚異に満たされるのだ。॥16॥3॥15॥


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